「……愛してるよ晴臣……お前だけだ――――」と。
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誘い雪 ●
ふと手元を照らす灯りがほのかに明るさを増した気配に、顔を上げた葵一はペンを置くと小さく一つ息を吐いた。眼鏡を外し、目頭を軽くマッサージしながら窓に目を向ける。
「おや、とうとう降ってきたね――――」
曇ったガラスから微かに見えるどんよりとした空から大粒の綿雪がチラチラと舞い降りていた。
空調の程よく効いた部屋の中では分らないが、外は相当気温が下がってきているのだろう。
窓に歩み寄り、曇りを拭った葵一の目の前を雪は絶え間なく降りていく。
そう言えば朝のニュースで言っていたな……と振り返り見上げた時計は午後3時を指していた。
(さて、どうしたもんか?)
誰にともなく呟いて机の上の書類に目を落とした。
今書いている報告書は週明け月曜日に提出予定のものだ。凡そのところは出来ていてこのまま提出しても報告書としての役目は十分果たせるとは思う。だが誰にも文句を言わせないために完璧を期するとすれば、あと3時間は必要だった。
葵一はもう一度窓の外に目をやった。
僅かな間にも雪は激しさを増しているようで視界は白く霞んでいる。
「余裕で仕上がると思ってたんだけどねぇ……」
降り続く雪を目で追いながら葵一はため息をついた。
ワーカーホリック気味の弟、玲二と同じで葵一も仕事は嫌いではない。だが家に仕事を持ち込むのは葵一の意に反するし本音を言えば残業だってしたくはないのだ。居心地のいいこの家に早く帰りたいと、家を出た瞬間から思ってしまうほどで、その為に、毎日仕事をこなしているといっても過言ではない。
しかも明日からは3連休だ。開けて提出日の月曜日は葵一の誕生日。今年は平日に当たっているので、この連休の間に皆を呼んでパーティをする計画も立てている。だからこそ早く帰りたいと焦る気持ちを押さえ込んで残業三昧で頑張ったのだ今週は。あと3時間粘って仕上げてしまうのは一向に構わないのだ。けれど、そうしている間にも降り積もるだろう雪のせいで交通機関が麻痺してしまったとしたら? この勢いだとあり得ないことではないだろう。
そこまで考えて「冗談じゃない!」と葵一は軽く頭を振った。
「何時もどおり車で来ていれば悩まずに済んだのに………」
天候が悪くなりそうだから車は置いていけ、電話をくれれば迎えに行くからと出掛けに声を掛けてくれた男の顔を思い出して、葵一は小さく呟いた。
自分のことは二の次で何時も葵一のことを一番に考えてくれる、葵一にとって一番大事な男性(ひと)。彼の言うことだからこそ素直に頷いたのだ。
でもその言葉どおり電話で迎えを頼むと言うのもなんだか癪に障る。待っている間に仕事を進めていればいればいいのだろうけれど、それもなんだかしっくりこない気がするのだ。
(それに、雪の中を歩くっていうのも風情があって楽しいそうだしねぇ……ま、意に反するけれど今日のところは仕方がないかな? それにアイツが何時気が付くのか見てみたい気もするし……ね)
ウキウキとした気分で葵一は書類ケースに書きかけの書類を入れると、コートを手に部屋を出た。
職員通用口のドアを開けた途端、吹き付けた風に葵一は思わずコートの衿をかき合わせた。
思ったよりも寒く、頬をなぶって通り過ぎる風は予想以上に冷たかった。
少し早まったかな――――とは思ったけれど、それもまた一興だと思い直して、うっすらと積もりはじめた路上に足を踏み出した。
足元から這い登ってくる冷えが、暖かかった身体の熱を奪い取って歯の根が合わなくなってくるのもなんだか楽しく感じてしまう。
「……とは言ってもさすがにキツイね。後で晴臣に温かい甘酒を作らせよう――――」
葵一の思い通り雪はやむ気配を見せず、このままでは程なく交通機関も麻痺してしまうだろう勢いで降りてくる。それを恐れてか道行く人々は皆、一様に背中を丸めて急ぎ足で葵一を追い越していく。その中を一人違うテンポで歩きながら「この分だと明日の朝は積もりそうだね。そうだ一日早く直也君を呼びだして雪合戦でもやろうか? 玲二は怒るかもしれないけどね」などと暢気に考え、同時に少し戸惑った表情の直也と苦虫を噛み潰した顔の玲二を思い浮かべると、思いつきの素晴らしさに満足してクスリと笑う。
「ウン、いっそのこと高宮君や陣、それにいずみも呼んで皆で騒ぐって言うのはどうだろうね? 考えただけでワクワクするじゃないか……他の誰でもない、この私の誕生パーティなんだからねぇ」
取り留めのないことを考えながらかなりの距離を歩いた時だった、一台の車が音もなく近づいて側道に停まった。
クラクションを鳴らすでもなく、あくまでも静かに寄せてきた車の窓に見慣れた顔を見つけた瞬間、今まで考えていたことは葵一の頭の中から全て消えうせた。
「……来てくれたね……」
口の中で呟いて葵一はフワリと微笑んだ。
運転席から長い腕を伸ばして晴臣が開けてくれたドアから助手席に滑り込むと今までの寒さがウソのように温かい空気が身体を包み込んでくれる。
葵一はホッと安堵の息を吐いた。
葵一がしっかりとシートベルトを止めると、停まったときと同じように音もなく滑るように車が動き出した。
「………遅くなって済まなかった」
真正面を見据えたまま晴臣がボソリと呟いた。
それには答えず、葵一は静かにハンドルを握る晴臣の節の高い手に己の手を重ねた。
「――――冷たいな……本当に済まなかったな、気が付かなくて………」
電話を掛けなかった自分を責める言葉一つ吐かず本当に済まなそうに答える晴臣の端正な横顔を葵一は見つめ(雪の気配に気付かない程、何に熱中していたんだろうねお前は……)と瞳で問い掛ける。勿論、答えは返らない。
(それにそんな言い訳を聞きたいわけじゃないんだよ――――私はね……)
チラリとも自分を見ようとしない晴臣に胸の内で呟いて、その手をハンドルから引き剥がした。晴臣は驚くことなく前を見据えて器用に片手でハンドルを操っている。
小作りな葵一の顔を軽く覆ってしまいそうなほど大きな晴臣の手の平をそっと頬に押し当てる。
「ああ、いつも暖かいね、お前の手は……」
言いながら目を閉じると、そこから身体全体に暖かさが広がっていくような気がした。
(本当は今すぐにでもこの手で抱きしめて欲しいんだけれどね……)
思っても口には出さない。言っても晴臣は困惑した表情を浮かべるだけだと知っているから。
葵一と晴臣は恋人同士だ。二人きりになればそれなりに言葉も態度も返してくれる晴臣だが、人目がある場所では使用人としての態度を崩すことはない。
例えそれが今のように車の中という閉鎖された空間で、二人きりで、おまけに外は雪で誰も気にもとめていないという状況であってもである。
葵一にしてみれば物足りないことこの上ないが、晴臣が隣にいるというだけで満足してしまう自分がいるのだから仕方がない。
(だから今はこれで充分だよ――――晴臣)
吹雪となって降り注ぐ雪をかいくぐり玄関に飛び込んだ葵一は、仄かに香る甘い匂いに鼻をヒクつかせた。靴を脱ぐのもそこそこに香りに誘われるように匂いを追いかけ辿り着いた場所はキッチンだった。
「これは――――?」
葵一は顔をめぐらせて遅れて入ってきた晴臣を振り返った。
「ああ……あまりに寒かったんでな、甘酒を作っていた……」
肩にかかった雪を払いながら晴臣は早口でそう言うと、葵一の横をすり抜けてレンジの方へ向かった。
(本当に、ここまで私の考えていることを読んでくれるのに、肝心な所には気がつかないんだからね、お前は――……)
けれどそれが晴臣という男で、そういう男だからこそ葵一は安心して全てを預け甘えることができるのだった。
葵一は軽く肩を竦め、キッチンに立つ大きな背中に暫くの間見惚れていた。
「美味しそうだね、晴臣。早速いただくよ……でもその前に……」
着替えてくるからと言い置いて葵一はキッチンを出た。
甘酒一杯で酔うほど酒には弱くないけれど、酔ったということにしておこうか―――。
こうでもしないと晴臣との甘い時間は過ごせない……車の中で晴臣の暖かい手をわが身に引き寄せた時点で葵一の中から仕事はきれいさっぱり消えていた。暖められた部屋と甘酒のおかげで身体はぬくもりを取り戻していたけれど、心は満足してなんかいない。
今でも凍えたままで心の底から晴臣のぬくもりを欲していた。
スッカリ空になった湯飲みをそっとテーブルに置いた葵一は、そのままテーブルに両肘をつくとその上に顎を乗せ「ホゥ〜」と一つ息を吐いてそっと前髪をかきあげた。
向かいに座った晴臣が「どうかしたのか?」と問いたげに片眉を上げた。
(かかった……かな?)
心の中でほくそ笑み、更に物言いたげな視線を伏せてテーブルに突っ伏した。
ガタンっと音を立てて立ち上がった晴臣が近づいてくる気配が伝わる。
(あと、少し……)
「酔ったのか葵一 ――――」
気遣わしげな声で晴臣が上体を傾けて顔を覗き込んでくる。葵一は気だるげに顔を上げ、
「どうもそうらしいね……すきっ腹に飲んだから――――」
といかにも辛そうに眉を顰めて答えた。
「……苦しいのか? 辛いのか……」
らしくもなく取り乱し早口で畳み掛け額に伸ばされた腕を掴んで止め「大丈夫だよ……」と微笑んでみせる。
「そうか……それなら夕食まで部屋で休むといい………」
安堵の息を吐き上体を起こそうとした晴臣の首に素早く葵一は腕を絡ませ、自分の方へと引き寄せ、
「連れて行ってくれるよね? どうも足にきたみたいでね歩けそうにないんだよ……」
耳元に息を吹き込むように囁いた。
かなり上背のある自分を軽々と抱き上げてもびくともせず、しっかりとした足取りで歩を進める晴臣の厚い胸に葵一は甘えるように凭れかかった。
「……少し熱いな、やはり熱があるんじゃないのか……」
「晴臣……私の職業を忘れたのかい?」
「いや、そんなことはないが……でも動悸もしているようだし……な、だから、その――――」
(私の身体を心配してくれるのは涙が出るほど有難いんだけどね、晴臣……勘違いもそこまでいくと罪ってものだよ。本当に仕方がないね……)
ボソボソと話す晴臣に葵一は気付かれないよう胸の内でため息をつく。
「ここでいいよ。晴臣、下ろしてくれないか」
「――――葵一……?」
自室の前で突然態度を変えた葵一に晴臣は一瞬戸惑うような表情を見せたが、見つめ返す瞳の中に何かを感じ取ったのか大人しく言葉に従った。
葵一はゆっくりとドアを開け部屋の中に入ると振り返り、呆然としている晴臣に向かって右手を差し出した。
「……どうしたの? 入ってこないのかい?」
「……夕食の支度が……そろそろ周平も……」
「鹿島は帰ってこないよ、さっき電話があった」
視線を反らせてボソリと答える晴臣に葵一は挑むように言った。
(そう、鹿島は帰ってこないんだよ、晴臣。電話で頼んだからね、今日はそっちに泊まってくれとね)
「――――」
弾かれるように驚いた表情で顔を上げた晴臣を見据えたまま葵一は一歩足を進め、距離を縮める。
(ここまで言っても解ってもらえないのかい? 晴臣……)
「葵一……」
「晴臣、私が欲しいのは……家政婦でも下僕でもないんだよ?」
解らないのか……と葵一は困惑した表情を浮かべる晴臣に更に一歩近づいた。
「何を遠慮している? これ以上私に言わせ……」
るな―――と続けるはずの言葉は喉の奥に消えていった。
葵一が近づくより早く足を踏み出した晴臣に息も出来ないくらいの強い力で抱きしめられて、言葉を発する間もなく唇を塞がれたのだ。息つく暇なく角度を変えて何度も唇をむさぼられ、その激しい口付けに膝が砕けそうになる寸前で抱き上げられた。
そのまま、唇を合わせたままベッドに運ばれ、引きちぎる勢いで衣服を剥ぎ取られた――――。
飢えた狼のような激しさで自分を求め律動を繰り返す晴臣の熱を全身で受け止めながら、霞みそうになる意識の中で葵一は繰り返し呟いた。